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ロケ日記.2007.1.30
 外国ロケというと誰もが大事(おおごと)に考える。それは当然の事で、撮り直しなど許るさせる要素は一つも無く、緊張感も最いたる物である。いくら短く計画しても、ロケハンなど準備がいろいろあり、時差ボケ解消してベストの状態にするには最低一週間は必要である。以前の記録は、ハワイロケの二泊四日だった。プロゴルファーを撮影する仕事であったから、日本に居る間に、ゴルフ場の撮影許可を取ってしまえば、不可能のロケではなかった。それを4時間縮めた海外ロケを、つい最近体験した。やはり何故かハワイ。
 2007年1月30日、PM7:10成田ノースウエストカンター集合。例によってジンクスラーメンを食べて飛び立つ。6時間半のフライトの後、ホノルルに着き、朝食を取ながらコーディネーターと打ち合わせ。午後から日の周りのチェックと打ち合わせに現場に行く。天気が悪く、低くく重い厚い雲の中に、明日の撮影時の太陽の位置を想定する。心配で暗い気持ちのまま、午後3時には全て終える。ホテルにチェックインして、夕方は、ハワイに行くとお決まりの、ビーチを歩いて気ままにオープンバーに入りドラフトビールを飲んでピナコラーザを一杯。夕食はリブステーキに赤ワイン。ベットに入るが眠れない。こんな時は、長い経験で開き直る、「すぐに日本に帰るのだから時差を感じたままに過ごして帰ろう。」「明日9時の時だけ冴えていればいいのだから、焦らない....。」「撮影が終われば、ず〜と寝ていてもいいのだから、焦らない、焦らない...。」etc。
 今回もジンクスラーメンのおかげ。朝からドピーカン。一睡もしていないのに、頭は疲れていない。夢中でシャッターを押す。良い写真が撮れたと素直に感じる。幸福だ。午後からはフリー。皆は買い物。全然眠くないのでビーチに出て日光浴。日が傾いたら、また歩いて、昨日と違うバーで、ホテルのロビーから流れてくるハワイアンを聞きながら黒ビール、ピナコラーザ二杯とグリーンサラダ。夕食はベトナム料理中心の無国籍レストラン。ビールとワインがやたら旨い。幸福感と一緒に味合う。少し寝たら、朝7時に空港に向う。11時間半のフライトで成田に無事着く。簡単に書けばこんな感じ。2000年のハワイロケを4時間縮めたロケだった。
 ドラマが無かった訳ではないが、書く程の事では無い。ただ気持ちの持ち方が初体験だ。そうなれたのが嬉しい。それは、『ビーチサイドでカクテルを飲みたいからハワイに行こう。ついでに撮影をしてしまおぅ。』ず〜と思っていた理想のロケ心理になれた自分がうれしい。
 クライアントは富士通。環境シリーズ、日経新聞15段。2月20日掲載。これ以上の短いロケはないだろう、と考えながら掲載を見ていた自分がいた。航空会社が違うだけで4時間の差が出来た。これからは、こんなロケだけだといいな〜。国内のちょっと先の外国。時差ボケを感じる暇のない短いロケ。さぁ、これを書き込んだら今夜は何処に飲みに行こう。夕暮れのビーチの匂いを思い出しながら。58才2ケ月。
 
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ロケ日記.1994.6.20
エアーフランス275便.成田12:45でパリに向った。ヨーロッパロケは時間がいくらあっても足らないくらい勉強する事がいっぱいある。
 長い旅になる。事前にスケジュールを調節しても、どうやっても短くならない。毎週出る賃貸情報紙の表紙、巻頭ページの取材中心の撮影の仕事である。一日2.5人のペースで、8〜10ケ月分、32名を撮影しなければならない。体力と気力の3週間の旅である。どんな出会いがあるか楽しみ。その人の人生観、生活観を感じ取らねばならな旅である。
 ペースはこんなぐあい。パリに着いた翌日からコーディネーターがコンタクトを取り付けた人を午前、午後、時には夕方に住居を訪ねて2〜3時間で撮影、インタビューをこなす。それが6日続いて1日休みを3回くり返す。全員コーディネーターの管理下にある。トラブルも多い。
 *約束の時間に行っても在宅していない。コーディネーターが電話しまくる。やっと来た。「仕事の都合で....。」とひたすら言い訳をする。自然光が入らなくなる。頭に血がのぼるが、それはおさえる。
 *約束の日を間違えている人もいる。たまたま在宅していて難を逃れるが、今度はコーディネーターが頭に来ている。「部屋を片ずけていない....。」としぶるが強引に撮影を始める。スケジュールに余裕がない。しぶしぶ承知する所を見ると、よほどギャラがいいのだろう。
 この仕事の楽しみは、おいしい酒類、食事を通してその国の文化、芸術を堪能出来る事。それはけして高価な物を求めているのではない。画家の誰々かよく行った酒場、レストランとか、描いた場所とか.....。スタッフだけの自由なロケなのです。フランスには10度以上ロケをしているが、いつでもそんな余裕はない。全ての海外ロケは、入稿を逆算して組むから日程はタイトだ。その点においても大いに勉強させてもらったロケだ。ルーブルは無論、出来たばかりのピカソ美術館、ベルサイユ宮殿、ノルマンディー海岸。ノートルダム教会、名も無い沢山のギャラリー、などなど、7月14日のパリ祭にもぶつかった。本当に勉強させてもらったロケだった。大いなる価値ある旅をさせてもらった。「今の自分はここにある。」と言っても言い過ぎではないロケだった。
 実はこの内容のロケは3回目で、第1回は93年4月ニューヨーク、美術館と毎晩ジャズライブ、第2回は93年11月ミラノ、ダビィンチの絵画とファション、そして第3回が、このパリという様に大いに勉強させてもらった。
しかもギャラを貰って.....。
 ADは美術に詳しい、ファション、文化にも詳しい。いつも一緒に行動した。楽しかった。共に貧乏性でマメに動いた。二度と出来ないロケだと互い考えていたからだと思う。今でも時々いっしょに酒を飲む。このロケの話しはあまりしない。これ以外のロケの話は沢山する。何故だろう?互いに密かに思っているのだろうか?「他人に話ししても理解してもらえない。もったいない、もったいない、もったいない.....。」
 クライアントはアットホーム。賃貸住宅情報誌、週間マイルームガイド。ADは立川洋氏。いろいろな事を学ばしてもらい、大きな財産となった旅だった。いまでも、いつも感謝している。46才。
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ロケ日記.1977.?.?
 古い昔の話しだけど、緊張感の中でちょっと笑える話しをしようと思う。
我々の世界のCD(クリエティブディレクター)とAD(アートディレクター)という確かに解りずらい表示についてである。まだ会社勤めの時の事である。
 1977年春頃、羽田空港からJALでロサンゼルス向った。社長と副社長、いっしょのロケだ。
 西海岸のロケは午前出発して、時差の関係で同じ日の午後に着く事になる。つまりハワイ、西海岸のロケは時差ボケとの戦いとなる。クタクタで打ち合わせに入る。契約を含めたミーティングが重要なロケである。心身共に疲れている日本人スタッフは元気なアメリカ人の話しがストレートに頭に入らない。その日は軽い夕食を取ながら夜9時まで続いた。疲れていたが、少し変な事に気が付いたのは僕だけであろうか?現地スタッフは副社長の方ばかり向いて質問したり、その返答を仰いでいる。「それはHさんに聞いて下さい、Hさんが答えます。」と言っても、副社長のA氏に増々目を向けて話して来る。
 CDとAD、どちらが優先かは、その時その時の仕事によって違うと思う。それにしてもその責任は同等に重い。ややっこしい事に社長がADで副社長がCDとなると、社員としてはどうしても社長にいってしまう。我々は、ここに来るまでADと細かい打ち合わせを何度も、煮詰めてきた。だから変な感じがするのである。
 次の日も、その次の日もロケハンと平行して、そんなやり取りのミーティングが続いた。3日目のロケハンの時、アメリカ人のスタッフのロケハンポラを貼ったり、メモを書き込んだ書類を見て全てが解った。PHはカメラマンなどとと書いてあるスタッフ欄に、CDはChiefDirector、ADはAssistantDirectorと書いてあったのである。納得である。直ぐに伝えておこう、次のミーティングの時コーディネーターのチーフに、夕食の時に笑いながら話しをしてあげよう、社長と副社長に。二人はどんな顔をするだろうか......。
 二人のサインが必要な、お金に掛った重要な仕事であった。 
 クライアントはキヤノンカメラ AE-1。スタントマンを使った・・・ingである。AE-1はヒット商品になり売れた。28才。
 責任とプレッシャーで胸が熱くなった撮影だった。その後カタログ作例写真の為10日間アメリカに残る僕に、社長から表紙のスケッチを渡される。そこにはラフスケッチと共に注意する事のメモが優しい言葉で書いてある。アスリートに払うギャラまで.......。僕は今でもそのスケッチを持っている。そして時々見る。僕の宝であるから。見る度に夢中だった、あの頃に戻れるから。
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ロケ日記.1989.1.18
 前回ちょっとふれた「ジンクスラーメン」というサインについて書いてみようと思う。ロケ日記をつけ始めたという事は、習慣になった行事を、ひとつづつやる事によって、そのロケがいい結果に終る事を望むただその一点に願いをおめてする行為である。心のどこかに良い結果だけでなく、スタッフ全員が無事に日本に帰って来るという事実を望んでいるのである。一つ欠けても不安である。「ジンクスラーメン」もその一つだ。
 成田開港の時は第一ターミナルしか無かった。そこに「ニュートウキョウ」が有り、税関を通る前に必ず打ち合わせを兼、ビールとラーメンを食べた。不思議にロケは成功し続けた。第二ターミナルが出来た当時は、搭乗口の上の軽食コーナにラーメンが無かった。焦って、駆け出して第一の「ニャートゥキョウ」にひとりだけでも行って、ビールとラーメンを食べたりもした。そしていい結果に結びついた。やがて第二にも「田舎風ラーメン」がメニューに加わり、駆け出す事もなくなった。それも満足な結果になった。こうなると、とても恐くて手を抜けない。確実に行事となっていった。
 1989年1月18日(水)PM5:00 成田、チャイナエアー.カウンター前(JAL内)。018でホノルル経由でサンフランシスコに向おうとしている。スタッフは僕とアシスタントとADそれに代理店三人、計6名。現地でオーディションして4名を選び3点の駅ばりポスターの撮影をして来るというロケ日程。夜21:20分SFに着き、税関をクリァーしてホテルには真夜中。時差で眠れないから軽食で「明日からよろしく!乾杯!」ベットインはAM2:00。次ぎの日から4日間ロケハン、オーディション、準備の日々が始まる。
 一日目、AM8:00レストラン集合して朝食後ロケハン。アシスタントが起きて来ない。こんな事はめったにない。部屋に行くと、ニコニコしながらお腹が痛いと言う。それでも丸一日一緒に行動する。40名のオーデションして夕食はPM10:00、一人だけ食欲がない。こんな事もあまりない。何かがおかしい。
 二日目、朝やはり起きられないし食欲がなく苦しそうだ。「風邪か、疲れだろうから、ルームサービスを頼んでホテルで休んでいろ。」と僕。一日動き廻って夕食の後部屋に寄ると、食事もしていないし、やはりお腹が痛い。「病院に行くか?」の彼の答えは苦しいながらもニコニコしながら「大丈夫です。大丈夫です。」
 三日目、朝食も取れないし痛がっている。いつもの様に夕食後、部屋に寄ると、自分から「病院に行く。」と言う。我慢強い男が言うのだから、これはえらい事になったと直感した。コーディネーターの永島さんとふたりで抱えて緊急病院に行く。サンフランシスコは坂が多いから西海岸の中では小さな都市である、すぐに病院に着いた。しかし悪い事は重なる。その日アメフトの49ersがワールドチャンピョンになり、街中が狂乱し、急性アルコール中毒や喧嘩して怪我した人で溢れていた。緊急と訴えても、並んでくれと言われるばかり。やっと診察してもらった、医者がいきなり謝った。「急性盲腸炎」ですぐ手術して入院しなければ.....。親の変わりに書類にサインして、手術に立ちあい、上手くいった事を確認して深夜ホテルに帰る。明日からどの様にしたらいいか疲れた頭で考える。
 四日目、朝一番に病院に行って説明を聞く。「一週間は動かせない、飛行機に乗るには10日かかる」との事。現像所に行き掲示板(アメリカでは写真関係の仕事をしたい人は連絡先を貼っておく)でアシスタントを二人選ぶ。彼等と合流してレンタルストロボ手配に行く。明日から3日間、大掛かりな撮影に入る。準備で忙殺される。アシスタントのありがたみ、パートナシップを思い知る。明日から勝負だ!
 3日間の天気にも恵まれ無事に撮影は終った。勿論、朝夕必ず病院によった。日に日に回復している。49ersの試合のビデオも見飽きたし、テレビにも退屈にしている。
 八日目、予備日にあてていたのでフリーの日になる。明日、日本に帰る。医者の説明を聞きに行く。医者は無理だと言うが、本人はなんとしても帰りたいと訴える。医者は頭を抱えて条件を出す。「絶対重い物を持たせない事。帰ったら大き病院で診察を受ける事。」を僕に約束させる。何種類かの薬をもらって夕方退院させる。これからは僕が不安だ。
 九日目、直行便のJAL001 PM12:00に変更。一人で機材の梱包、税関チェックを終え、待ち合い室に戻る。「大丈夫か?」と僕。「少し寒い」と言う。ショップでジャンバーを買ってあげる。勿論、49ersの金色のスタジャン。そして何にも無かったかの様に無事に日本に帰って来た。
 「ジンクスラーメン」効かなかった、とお思いですか?とんでもないまさに効いたのです。ロケ先がサンフランシスコで幸いしたのです。街が小さくすぐに病院に行けた事が重要だったのです。彼とは三ヶ月前、水着の撮影でアフリカのセイシェル島、バード島に11日間も滞在していたのです。もしその時「急性盲腸炎」だったら、と思うと、今でも背筋がぞ〜とする。「ジンクスラーメン」のおかげと感謝している。
 クライアントはチャイナエアー。駅ばり、B倍のポスター3点。アシスタントは井口匡。二年後にフリーとなり、F-1 の撮影で世界中を何年も駆け巡るカメラマンに成る。
 短かいロケだったが、濃縮された多くの事を学んだ旅だった。40才。
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ロケ日記.1984.5.3
「ライフワークの写真」について書こうと思う。「AMERICA」の様な作品群ではなく、 「広告ライフワーク写真」、はたして、そんんな言い方あるのだろうか?名作、出世作などと言う広告写真はこの業界にはあるのだが......。

 1984年5月3日(木).PM4:00 成田、パンナムカンター前。022便でロサンゼルスに向おうとしている。多量の機材と多量のシューズを持っているので、税関で多少時間が掛ったが無事にチェクインして、ビールを飲み、ジンクスラーメンを食べている。(ジンクスラーメンとは、成田空港が出来た時からの習慣で、旅の無事だけでなく、良い仕事に必ず成ると願う、僕だけの御呪い)クライアント、アートディレクター、コピータイター、僕とアシスタントの5名。少ないスタッフだ。僕の一番好きな人数だ。フットワークが一番いい人数なのだ。出発前からどんどんやる気が出て來ている。

いい写真が撮れる予感が今からする。これからの旅の軽い打ち合わせをしながらビールを飲んでいる。軽い打ち合わせしか出来ないのだ。どんな絵にするかは、何ヶ月も前から机上でやって来た。今は空港に迎えに来るコーディネーターに目的の絵を撮る為に、ムダなく、どのルートを旅したらいいかを、端的に伝えられるかの打ち合わせしか出来ないのだ。フライト時刻まで、ビールを飲みながら「これから2週間、眠れない日々が続くな〜。」と考えている。
 案の上、着いた日から一日半で、ミーティング、ルート決め、小道具買い集め、必要なリースをして大都会から離れた。帰ったら良いホテルに泊まろうと決めて、市内の宿泊は、気楽な「HILANND Motel」。三日目から、日の出から日の入りまで、ひたすら走り、ひたすら撮影した。気分は高ぶり、眠くなかった。

 初日にドライレイクを目指して南東に向う、次の日は赤い谷、草原、荒野の道、鉄道、その次の日は田舎町、牧場、そしてデスバレーに入った。砂漠は絵にしなくてはならない一つのポイントだ。かなりの時間をかけて撮影した後、岩山に向う。ラスベガスで小休止。次の日はサボテン山、小川、湖、さらにグランドキャニオン。そしてルート40を西に走りロスに帰って来た。8日間、北へ南へ、東へ西へ、車の走行距離は1000マイルを越えていた。35m/mポジ、250本。もう一つの別の仕事を終えて、スタッフの五日後に021便で日本に帰った。
上がりのポジを見るだけで丸2日間。全てのポジにその時感じた、光り、影、色、天気、ドラマチックな写真が写っていた。三日後のクライアントプレゼン、スライドショー。皆なに受けた、喜んでもらえた。いろいろな物に使うと約束してくれた。二年間分の雑誌広告、カタログ、その他の印刷物に使用する量をクリァーする事が出来たのだ。
その夜、スタッフと夜遅くまで飲んだ。酒がやたら旨く、全然酔わなかった。若くタフだった。ロケ日記の最後の晩に書いていた、今日の成功を予感している文を思い出しながら、いつのまにかカウターで寝ていた。幸福だった。一つのロケが終り、次ぎのロケ準備の為の眠りなんだと思いながら寝ていた。その晩は、これから15年間。2年に1度のペースの海外ロケと17年間の掲載の広告写真を撮るクライアントになるとは考えもつかなかった。ロケ場所だけでも、カリフォリニア・アラスカ北部・ナッシュビル・シアトル・アラスカ南部・ニュージー ランド北島・ニュージーランド南島・アタランタ。この仕事は「ライフワーク広告写真」と言っていいのではないか?写真は一貫していて、誰が見ても目羅写真と解るモノだ。皆さんはどう思いますか?

 クライアントはセダークレスト(ミドリ安全)。ポスター、雑誌広告、カタログ、POP、全ての写真を一人のカメラマンが撮ったのです。34才から51才まで。心から感謝している最高のクライアントです。スタッフにも、勿論ありがとう。
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