2005.09.30 Friday
ロケ日記.1981.7.10
1981年7月10日(金).AM8:00 成田JALカンター前。これからJAL006.11:05 でニューヨークに飛び立とうとしている。しかしチェクインはしていない。CFとの合同ロケで機材の量も半端ではない。片隅に山となって積まれていて他の客に迷惑だ。かたわらで、プロデューサーのS氏が気ぜわしく連絡を待っている。フライト時刻がせまっている。ニューヨークのコーディネーターJ氏からビックタレントとの契約が出来たかどうか?の連絡を待っているのだ。時刻がせまる。契約が失敗すれば全てムダになる。
時刻がせまる。プロデューサーの判断に掛ってきた。こんなリスキーな仕事初めてだ。大半の仕事は出発前に何度も打ち合わせを重ね、ロケ場所、撮影方法、時間割り、etcほとんどの事が事前に決まっている。
しかし今回プレゼンした某大物タレントは日本の広告の独占契約をH社と交わしていた。それを破棄しないと、タレントは新スポンサーと広告の契約が出来ない。同時に動いている。タレントの新契約の確認とH社による独占契約の破棄。それを待っているのだ。大物タレントは車好きで出演したがっている事はキャチした。問題はどの様に破棄するかだ。今も進行している。H社のT部長が密かに入念に進めている。(どの様にしたかが一番面白いのだが、法律に絡み、名誉毀損、時効など難しい問題なのでここでは語れない。)結果は何も決まらないままニューヨークに飛び立った。現地で再交渉するという最悪の結論になったのだ。幸いにも3日後に現地で契約に成功した。全てが綱渡りだった。
どのくらい大物かと言うと...
*ホテルに呼び出せないので、コネチカットの彼の屋敷に人数制限で行き、リビングにも入れてもらえず、玄関から壁に沿ってプール出て、プールの横のテーブルで契約を結び、撮影の打ち合わせをした。
*その時、ヘリコプターが上空に飛んで来たら、彼だけ軒下に身を隠し飛び去るまで凝視していた。常にスクープを恐れているのだ。我々は、その一部始終を口を開けて見ていた。
*一日の撮影時間は四時間と決められた。そっくりな影武者を使う事と、高額な保険を掛ける事を要求された。影武者がテスト演技して、彼のアイディアを入れ本番撮影に入った。誰も意見が言えなかった。役者であり、監督であった。グラフィックのスケッチには、興味が無いのか、理解出来ないのか、何にも言わなかった。
*撮影隊しかいない広大なロケ地でも、短い移動(リムジンからメークする為のロケバスに乗り込む)でも、常に前後、横と三人のボディーガードが廻りを固めた。ジャケットの内ポケットには拳銃があった。
*日本に帰ってから、全てのポジをデュープして送りチェックさせられた。写真のOKが取れたら、レイアウトもチェックさせられた。(これは初回だけで、それ以降は信頼された。)etc
順調とはいえないまでも、最低必要なカットをこなし、ドキドキしながら日本に帰って来た。無事に、本人、クライアントのチェックを終え、印刷に廻った。その年、車は売れた。
クライアントは日産プリンス。大物タレントはポール.ニューマン。『クルマは愛だ。ポール.ニューマン』
最後にロケ日記にこう書いてある。
「疲れた。とにかく疲れた。日程も撮影時間も短く、天気にも恵まれ順調に行ったのに、何故だろう。考え方によっては楽な仕事の部類だ。自分の好きな時間帯に撮影出来なかったからだろうか?待ち時間が有り過ぎたからだろうか?大きなプレシャーに潰されそうだ。大きな仕事がいい仕事とは思えない。こんな事に早く慣れなくては良いカメラマンに成れない、いい勉強したと思い、明日の飛行機に乗ろう、そして日本に帰ろう。」
JAL005 9日間の旅は終った。32才。
時刻がせまる。プロデューサーの判断に掛ってきた。こんなリスキーな仕事初めてだ。大半の仕事は出発前に何度も打ち合わせを重ね、ロケ場所、撮影方法、時間割り、etcほとんどの事が事前に決まっている。
しかし今回プレゼンした某大物タレントは日本の広告の独占契約をH社と交わしていた。それを破棄しないと、タレントは新スポンサーと広告の契約が出来ない。同時に動いている。タレントの新契約の確認とH社による独占契約の破棄。それを待っているのだ。大物タレントは車好きで出演したがっている事はキャチした。問題はどの様に破棄するかだ。今も進行している。H社のT部長が密かに入念に進めている。(どの様にしたかが一番面白いのだが、法律に絡み、名誉毀損、時効など難しい問題なのでここでは語れない。)結果は何も決まらないままニューヨークに飛び立った。現地で再交渉するという最悪の結論になったのだ。幸いにも3日後に現地で契約に成功した。全てが綱渡りだった。
どのくらい大物かと言うと...
*ホテルに呼び出せないので、コネチカットの彼の屋敷に人数制限で行き、リビングにも入れてもらえず、玄関から壁に沿ってプール出て、プールの横のテーブルで契約を結び、撮影の打ち合わせをした。
*その時、ヘリコプターが上空に飛んで来たら、彼だけ軒下に身を隠し飛び去るまで凝視していた。常にスクープを恐れているのだ。我々は、その一部始終を口を開けて見ていた。
*一日の撮影時間は四時間と決められた。そっくりな影武者を使う事と、高額な保険を掛ける事を要求された。影武者がテスト演技して、彼のアイディアを入れ本番撮影に入った。誰も意見が言えなかった。役者であり、監督であった。グラフィックのスケッチには、興味が無いのか、理解出来ないのか、何にも言わなかった。
*撮影隊しかいない広大なロケ地でも、短い移動(リムジンからメークする為のロケバスに乗り込む)でも、常に前後、横と三人のボディーガードが廻りを固めた。ジャケットの内ポケットには拳銃があった。
*日本に帰ってから、全てのポジをデュープして送りチェックさせられた。写真のOKが取れたら、レイアウトもチェックさせられた。(これは初回だけで、それ以降は信頼された。)etc
順調とはいえないまでも、最低必要なカットをこなし、ドキドキしながら日本に帰って来た。無事に、本人、クライアントのチェックを終え、印刷に廻った。その年、車は売れた。
クライアントは日産プリンス。大物タレントはポール.ニューマン。『クルマは愛だ。ポール.ニューマン』
最後にロケ日記にこう書いてある。
「疲れた。とにかく疲れた。日程も撮影時間も短く、天気にも恵まれ順調に行ったのに、何故だろう。考え方によっては楽な仕事の部類だ。自分の好きな時間帯に撮影出来なかったからだろうか?待ち時間が有り過ぎたからだろうか?大きなプレシャーに潰されそうだ。大きな仕事がいい仕事とは思えない。こんな事に早く慣れなくては良いカメラマンに成れない、いい勉強したと思い、明日の飛行機に乗ろう、そして日本に帰ろう。」
JAL005 9日間の旅は終った。32才。
