2006.04.22 Saturday
ロケ日記.1989.1.18
前回ちょっとふれた「ジンクスラーメン」というサインについて書いてみようと思う。ロケ日記をつけ始めたという事は、習慣になった行事を、ひとつづつやる事によって、そのロケがいい結果に終る事を望むただその一点に願いをおめてする行為である。心のどこかに良い結果だけでなく、スタッフ全員が無事に日本に帰って来るという事実を望んでいるのである。一つ欠けても不安である。「ジンクスラーメン」もその一つだ。
成田開港の時は第一ターミナルしか無かった。そこに「ニュートウキョウ」が有り、税関を通る前に必ず打ち合わせを兼、ビールとラーメンを食べた。不思議にロケは成功し続けた。第二ターミナルが出来た当時は、搭乗口の上の軽食コーナにラーメンが無かった。焦って、駆け出して第一の「ニャートゥキョウ」にひとりだけでも行って、ビールとラーメンを食べたりもした。そしていい結果に結びついた。やがて第二にも「田舎風ラーメン」がメニューに加わり、駆け出す事もなくなった。それも満足な結果になった。こうなると、とても恐くて手を抜けない。確実に行事となっていった。
1989年1月18日(水)PM5:00 成田、チャイナエアー.カウンター前(JAL内)。018でホノルル経由でサンフランシスコに向おうとしている。スタッフは僕とアシスタントとADそれに代理店三人、計6名。現地でオーディションして4名を選び3点の駅ばりポスターの撮影をして来るというロケ日程。夜21:20分SFに着き、税関をクリァーしてホテルには真夜中。時差で眠れないから軽食で「明日からよろしく!乾杯!」ベットインはAM2:00。次ぎの日から4日間ロケハン、オーディション、準備の日々が始まる。
一日目、AM8:00レストラン集合して朝食後ロケハン。アシスタントが起きて来ない。こんな事はめったにない。部屋に行くと、ニコニコしながらお腹が痛いと言う。それでも丸一日一緒に行動する。40名のオーデションして夕食はPM10:00、一人だけ食欲がない。こんな事もあまりない。何かがおかしい。
二日目、朝やはり起きられないし食欲がなく苦しそうだ。「風邪か、疲れだろうから、ルームサービスを頼んでホテルで休んでいろ。」と僕。一日動き廻って夕食の後部屋に寄ると、食事もしていないし、やはりお腹が痛い。「病院に行くか?」の彼の答えは苦しいながらもニコニコしながら「大丈夫です。大丈夫です。」
三日目、朝食も取れないし痛がっている。いつもの様に夕食後、部屋に寄ると、自分から「病院に行く。」と言う。我慢強い男が言うのだから、これはえらい事になったと直感した。コーディネーターの永島さんとふたりで抱えて緊急病院に行く。サンフランシスコは坂が多いから西海岸の中では小さな都市である、すぐに病院に着いた。しかし悪い事は重なる。その日アメフトの49ersがワールドチャンピョンになり、街中が狂乱し、急性アルコール中毒や喧嘩して怪我した人で溢れていた。緊急と訴えても、並んでくれと言われるばかり。やっと診察してもらった、医者がいきなり謝った。「急性盲腸炎」ですぐ手術して入院しなければ.....。親の変わりに書類にサインして、手術に立ちあい、上手くいった事を確認して深夜ホテルに帰る。明日からどの様にしたらいいか疲れた頭で考える。
四日目、朝一番に病院に行って説明を聞く。「一週間は動かせない、飛行機に乗るには10日かかる」との事。現像所に行き掲示板(アメリカでは写真関係の仕事をしたい人は連絡先を貼っておく)でアシスタントを二人選ぶ。彼等と合流してレンタルストロボ手配に行く。明日から3日間、大掛かりな撮影に入る。準備で忙殺される。アシスタントのありがたみ、パートナシップを思い知る。明日から勝負だ!
3日間の天気にも恵まれ無事に撮影は終った。勿論、朝夕必ず病院によった。日に日に回復している。49ersの試合のビデオも見飽きたし、テレビにも退屈にしている。
八日目、予備日にあてていたのでフリーの日になる。明日、日本に帰る。医者の説明を聞きに行く。医者は無理だと言うが、本人はなんとしても帰りたいと訴える。医者は頭を抱えて条件を出す。「絶対重い物を持たせない事。帰ったら大き病院で診察を受ける事。」を僕に約束させる。何種類かの薬をもらって夕方退院させる。これからは僕が不安だ。
九日目、直行便のJAL001 PM12:00に変更。一人で機材の梱包、税関チェックを終え、待ち合い室に戻る。「大丈夫か?」と僕。「少し寒い」と言う。ショップでジャンバーを買ってあげる。勿論、49ersの金色のスタジャン。そして何にも無かったかの様に無事に日本に帰って来た。
「ジンクスラーメン」効かなかった、とお思いですか?とんでもないまさに効いたのです。ロケ先がサンフランシスコで幸いしたのです。街が小さくすぐに病院に行けた事が重要だったのです。彼とは三ヶ月前、水着の撮影でアフリカのセイシェル島、バード島に11日間も滞在していたのです。もしその時「急性盲腸炎」だったら、と思うと、今でも背筋がぞ〜とする。「ジンクスラーメン」のおかげと感謝している。
クライアントはチャイナエアー。駅ばり、B倍のポスター3点。アシスタントは井口匡。二年後にフリーとなり、F-1 の撮影で世界中を何年も駆け巡るカメラマンに成る。
短かいロケだったが、濃縮された多くの事を学んだ旅だった。40才。
成田開港の時は第一ターミナルしか無かった。そこに「ニュートウキョウ」が有り、税関を通る前に必ず打ち合わせを兼、ビールとラーメンを食べた。不思議にロケは成功し続けた。第二ターミナルが出来た当時は、搭乗口の上の軽食コーナにラーメンが無かった。焦って、駆け出して第一の「ニャートゥキョウ」にひとりだけでも行って、ビールとラーメンを食べたりもした。そしていい結果に結びついた。やがて第二にも「田舎風ラーメン」がメニューに加わり、駆け出す事もなくなった。それも満足な結果になった。こうなると、とても恐くて手を抜けない。確実に行事となっていった。
1989年1月18日(水)PM5:00 成田、チャイナエアー.カウンター前(JAL内)。018でホノルル経由でサンフランシスコに向おうとしている。スタッフは僕とアシスタントとADそれに代理店三人、計6名。現地でオーディションして4名を選び3点の駅ばりポスターの撮影をして来るというロケ日程。夜21:20分SFに着き、税関をクリァーしてホテルには真夜中。時差で眠れないから軽食で「明日からよろしく!乾杯!」ベットインはAM2:00。次ぎの日から4日間ロケハン、オーディション、準備の日々が始まる。
一日目、AM8:00レストラン集合して朝食後ロケハン。アシスタントが起きて来ない。こんな事はめったにない。部屋に行くと、ニコニコしながらお腹が痛いと言う。それでも丸一日一緒に行動する。40名のオーデションして夕食はPM10:00、一人だけ食欲がない。こんな事もあまりない。何かがおかしい。
二日目、朝やはり起きられないし食欲がなく苦しそうだ。「風邪か、疲れだろうから、ルームサービスを頼んでホテルで休んでいろ。」と僕。一日動き廻って夕食の後部屋に寄ると、食事もしていないし、やはりお腹が痛い。「病院に行くか?」の彼の答えは苦しいながらもニコニコしながら「大丈夫です。大丈夫です。」
三日目、朝食も取れないし痛がっている。いつもの様に夕食後、部屋に寄ると、自分から「病院に行く。」と言う。我慢強い男が言うのだから、これはえらい事になったと直感した。コーディネーターの永島さんとふたりで抱えて緊急病院に行く。サンフランシスコは坂が多いから西海岸の中では小さな都市である、すぐに病院に着いた。しかし悪い事は重なる。その日アメフトの49ersがワールドチャンピョンになり、街中が狂乱し、急性アルコール中毒や喧嘩して怪我した人で溢れていた。緊急と訴えても、並んでくれと言われるばかり。やっと診察してもらった、医者がいきなり謝った。「急性盲腸炎」ですぐ手術して入院しなければ.....。親の変わりに書類にサインして、手術に立ちあい、上手くいった事を確認して深夜ホテルに帰る。明日からどの様にしたらいいか疲れた頭で考える。
四日目、朝一番に病院に行って説明を聞く。「一週間は動かせない、飛行機に乗るには10日かかる」との事。現像所に行き掲示板(アメリカでは写真関係の仕事をしたい人は連絡先を貼っておく)でアシスタントを二人選ぶ。彼等と合流してレンタルストロボ手配に行く。明日から3日間、大掛かりな撮影に入る。準備で忙殺される。アシスタントのありがたみ、パートナシップを思い知る。明日から勝負だ!
3日間の天気にも恵まれ無事に撮影は終った。勿論、朝夕必ず病院によった。日に日に回復している。49ersの試合のビデオも見飽きたし、テレビにも退屈にしている。
八日目、予備日にあてていたのでフリーの日になる。明日、日本に帰る。医者の説明を聞きに行く。医者は無理だと言うが、本人はなんとしても帰りたいと訴える。医者は頭を抱えて条件を出す。「絶対重い物を持たせない事。帰ったら大き病院で診察を受ける事。」を僕に約束させる。何種類かの薬をもらって夕方退院させる。これからは僕が不安だ。
九日目、直行便のJAL001 PM12:00に変更。一人で機材の梱包、税関チェックを終え、待ち合い室に戻る。「大丈夫か?」と僕。「少し寒い」と言う。ショップでジャンバーを買ってあげる。勿論、49ersの金色のスタジャン。そして何にも無かったかの様に無事に日本に帰って来た。
「ジンクスラーメン」効かなかった、とお思いですか?とんでもないまさに効いたのです。ロケ先がサンフランシスコで幸いしたのです。街が小さくすぐに病院に行けた事が重要だったのです。彼とは三ヶ月前、水着の撮影でアフリカのセイシェル島、バード島に11日間も滞在していたのです。もしその時「急性盲腸炎」だったら、と思うと、今でも背筋がぞ〜とする。「ジンクスラーメン」のおかげと感謝している。
クライアントはチャイナエアー。駅ばり、B倍のポスター3点。アシスタントは井口匡。二年後にフリーとなり、F-1 の撮影で世界中を何年も駆け巡るカメラマンに成る。
短かいロケだったが、濃縮された多くの事を学んだ旅だった。40才。
